去る5月18日から4日間の日程で、岩手県大槌町の大阪JMATが担当する仮設診療所へ出動してきました。
JMATというシステムは昨年4月に提唱されたばかりの新しいシステムですが、その活動の具体的なルール作りが出来上がる前に、今回の震災が発生してしまいました。全国的に手探りの状態で見切り発車ではじめた活動ですが、概ね効果的に進んだ印象を受けました。
私は、阪神淡路大震災のときも関西医科大学付属病院のチームとして出動した経験がありますが、当時は組織立った公的な活動が確立していませんでしたので、現地の本部が混乱しており、医療活動を開始するまで数日間を要しました。しかもそれから2ヶ月間、病院のスタッフだけで回していかなければならず、業務的にも厳しい状況が続きました。さらに、各医療機関が神戸の各地区にそれぞれバラバラに立ち上げた仮設診療所が互いに充分な連携が取れず苦労したのを覚えています。
その点、JMATは、参加はあくまで個人の手挙げ方式(professional autonomy)ですが、日本医師会が采配し、都道府県の医師会長が都道府県の災害対策本部の副本部長という公的な後ろ盾を持って活動できるため、費用や傷害保険も心配することなく安心して参加できます。ボランティア精神と公的業務をうまく組み合わせたバランスの良い活動になっていたと感じました。
われわれが出動したのは5月18日で、震災からすでに2ヶ月以上が経過していました。現地では、地元の医療機関が徐々に再開し、回復の兆しが見られました。また5月末日で災害救助法が終了し、6月からは保健医療が再開する状況でしたので、大阪JMATは5月いっぱいで活動を終了し、仮設診療所を撤収するという方針が出された時期でした。そうなると診療所での活動の規模を徐々に縮小していかなければなりません。
当初、我々スタッフ一同は、現地での3日間はほとんど寝ずに働くくらいの覚悟で大阪を出発しました。にもかかわらず、仮設診療所の仕事は午後4時30分には終えて、宿泊地に帰るようにとの通達でした。正直なところ、せっかく大阪から来たんだからもう少し大槌町の人たちの手助けをして頑張りたいという想いもありましたが、組織の一員として活動している以上、全体の流れを乱すような行動は慎まなければなりません。
どんな活動でも、その開始は「行きはよいよい」でいいのですが、撤収は難しいものです。神戸のときも、大学病院が撤収することを決めたとき、避難所の一部の人たちから「あんたらは私らを放っておいて診療所を閉めてしまうんか」と責められました。2ヶ月の間に医療チームと避難者との良好な関係を築いたにもかかわらず、最後で辛い思いをしたことを思い出します。
こういった社会的支援は、過度に感傷に流されることなく、ある程度淡々と事務的に進めていくほうがいいのかも知れません。撤収に向かう時期に参加したことで、それはそれで、繊細な心配りを必要とする難しい時期を実感した活動でありました。
(財団法人 田附興風会 医学研究所 北野病院 救急部 部長 木内 俊一郎)